稲刈りイベントにて

(産地の声)vol.1719 一老農のつぶやき           2025.10.8

 先週に稲刈りが終わった、と書いたが、実はイベントの稲刈りが残っていた。

 田植えに始まり、田の草取りをし、稲の開花見学をし、4日は刈り取りの日だった。最後の仕事の稲刈りだというので総勢45人という参加だった。

 

 参加者は、ほとんどが稲刈りをしたことがない、という人が大半だった。なので、鎌の持ち方、稲株の握り方を話し、実際にやって見せる。その次は、稲わらで束ねること、その束ね方なども実際にやって見せて始まったのだった。

 しかし、こちらの思い通りの事は進まないもので、刈り取りといったら刈るだけしか進めようとせず、刈った稲はそのまま積み上げてたまま。刈った稲は、両手でつかめる程度の大きさに束ねるよう言ったつもりだったのだが、束ねなかった。

 2枚の田んぼの内、1枚の方はコンバインで刈ろうと(天候も雨が心配だった)現場を離れてしまったことがいけなかった。教えたことがその通りやれたかどうか、確認してコンバイン刈りをすれば良かったのだった。

 彼らの稲刈りとその後の作業を見ていて、こんな仕事をしてはまずいんだよな、と思ったが、言えなかった。初めてだし、分からないのが当たり前と思えば仕方ない、と思うしかなかった。

 刈った稲を束ねないまま重ねるだけだと、稲が穂とワラ部分がこんがらがってごちゃごちゃになってしまっていた。刈ったら次に束ねればばらけないで済む。こちらは、刈り方、束ねか方を順に教えたので当然そうしてくれるものだと思ったのが、そうはならなかった。

 刈った稲は、穂先をそろえ束ねておけば、バラバラになることはないのだが、刈り取り後を見たら、穂先はちりじり、根元と穂先が混合してたりと、家族の者だったら、「こんなんじゃだめ、やり直し!」と叫んでいた。我々、農をする者は1本1本の稲を大事にする。そして脱穀するにも無駄のないようにしとくのだが。

 何というか、何故こうなってしまうのか、少々考えた。この違いはどこから来るのだろう。

 我々は、種を蒔き、半年かけて実りをもたらした稲に対しての思いがある。人間のいのちを支えてくれる稲、同時に稲のいのちを無駄にしては稲に対して申し訳ない、などと考えたりして取り組んでいるが、そういう思いは届かなかった。

 雨が降り始め心配だったが、何とか終えて、出荷場に移動し、臼で餅つき、自前のきな粉や、あんこ餅、納豆餅などにバーベキューもやって、皆さん和気藹々と盛り上がっていたことが何よりでした。