(産地の声)vol.1718 一老農のつぶやき 2025.10.1
秋の取り入れが終わって気が抜けている。一仕事が終えた、ということか。人間の方も一段落の気分なのだろう。
若い頃、ばあちゃんからいろいろ聞いた話を思い出す。既に無くなって30年以上になるが、我が輩が20代の頃のこと。
話は、これまでの人生で最も悲しかったこと、楽しかった事、辛かったこと、嬉しかった事などを聞いたのだった。一番の悲しかった事は、長男が若くして亡くなってしまい、「一緒に死んでしまいたい、と思ったそう。だが、次男の忠夫、3男の三郎がいたから死ぬわけにもいかなかった、アハハ・・・」その次男も太平洋戦争で海軍飛行隊の出陣で太平洋の藻くずとなって散ってしまい、次の三郎が我が輩の父となった。
その話の中で、出来秋に30俵のお米があれば、家族10人が生きられる。なので、出来秋のお米が確保できて一年の安心がもたらされた、と。
そういう心情が我が輩にもある。世界がどうなろうと1年分のお米(食べ物)があれば生きていかれる。そこに安心感が生まれる。同時に、天からの恵みに、先祖が田や畑を残してくれた感謝の念を強くしたのだった。
そういう思いを我々の年代は持っているように思う。毎朝、神棚に水をあげ、仏壇にはお茶を上げ、ご飯を炊いた時はご飯を上げて、それからみんなの食事が始まる。 そして、10月には地元の神社から各戸に幣束が配られ、穫れたお米を糀にして甘酒を造り、氏神様に奉納する。そして、この家で生まれた親族が集まり歓談の機会となり近況話に花が咲いたのだった。
日本の神社では10月17日には神嘗祭が行われるが、この地方ではジンジと呼び、祭る。11月23日は、新嘗祭となっている。皇室行事でも重要な行事となっている。
田の神様、稲の神様など人間を超えた存在を意識し、神として奉ってきたのだ。そういう環境で育った者としては、神嘗祭をし、新嘗祭をして神様に奉納した後で人間が食べるというのが、当たり前だった。
なので現代の新米を早く食べたい、早く食べたいという欲求は何なのだろう、と思う事がしばしばあった。新米を食べるのは、年を越してから食べられる、というのが普通だった者としては、現代が異様に感じたものだった。
現代日本が失ったもの。それは、自然の恵みに感謝すること。自然に生かされている、という認識の欠如なのではないか、などと思う。生きるに欠かせない空気、水、食べ物、大地、太陽と自然に対する畏敬の念が失われているように思う。 おかげさま農場・高柳功