(産地の声)vol.1714 一老農のつぶやき 2025.9.3
ムラの田んぼは、ほぼ刈り終えた。残るは我が家ともう一軒となりムラの大きくやっている人だけになった。
20代の時、あるおじいさんに出会い、「あんた、みのるほどこうべを垂れる稲穂かな」を知ってるか?と聞かれたが、知らなかった。含蓄のある教えだった。
昔の大人はムラのこぞう達の先生だった。何気ない会話の中で大切なことを教えられた。お米を食べ残すと「一粒残らず食え!」と怒鳴られ、そして「お米は一年に一回しかとれないんだぞ」とか、「だからお米と呼び捨てにするな!お米さんと言え」などと説教されたりした。
その時は、面倒なことだ、とか、あのじいさんはうるさいなどと思ったりしたが、人の生き方というか、人として大切なことを教えてくれたように、今は思う。
自然は語ることはしないが、自然は恵みをもたらしてくれる。大地と水と空気、そして太陽がこの世を照らしてくれる。そして、それらが一体となってお米や野菜が育ち私たちの命があるのだ。
理屈を言えば、酸素と水素と炭素を結合させたものがお米であり、生体エネルギーとして食べることによって私たち人間のいのちが保証される。地球的レベルで見れば人間は消費者であって、食べ物を作ってくれるのは植物であって、その逆はない。
植物が絶えると言うことは、人間は(動物もだが)生きることはできない。なのに、お米の議論というのは、いまだに価格論ばっかりなのは、何故だろう。
今、ムラの田んぼは刈り終わり、残っているのは我が家の田んぼだけの様相で、マイペースに刈り取りをしているのだが、上記のような妄想をしつつ、コンバインに乗っている。
コンバインの運転は、機械音がひどく会話などできない。娘が草取りをしていて時々声をかけてくれるが、何を言ってるのか皆目聞き取れないのだ。
猛暑が続いているのでやたら喉が渇く。娘が氷水にしたペットボトルを差し入れしてくれるが、これが生き返るような旨さ。都合5、6本は飲んだようだ。
知り合いの農家に会い今年の米価を聞いたら、なんとコシヒカリで33,000円というではないか。考えてしまうのは、そうであってもその値段をつけたのは農家ではない。消費者は農家が、という見方があるようだが違うのだ。
これも妄想なのか、あまり暑すぎて脳が混線状態なのかも知れない。
byおかげさま農場・高柳功