再びお米の話

 (産地の声)vol.1688 一老農のつぶやき           2025.3.5

 再びお米の話で妄想する。

 マスコミも国会論戦もピントをどこに置いているのか、と思う。お米の値段が高いことばかりの取り上げ方でいいのかと思う。少しばかり救いと思うのは、これまでが安すぎた、と言う認識が生まれてきたこと。

 

 お米の事だけではないが、TVを見てるといかに安く買えるか、いかにいいところを探すか、などという議論が続く近年だったが、そういう議論を聞くたびに日本人の劣化が始まったように思うのはおかしいだろうか。

 ものつくりというのは、いかに心を込めて真剣勝負で取り組むことではないか。それをいかにも価格論争だけで済まそうという社会は健全ではないと思うが、どうだろう。目先の欲望と損得ばかりの議論は空しい。

 木を見て森を見ず、森を見て木を見ず、なんて言葉もあるが、(ちょっと違うかな)我々人間は、地球大自然から収奪をして生きている。食べ物もそうだけれど、鉱物資源だって人間が作ったものではない。

 地球資源を取り出し、目一杯人間の都合優先で加工、収奪して今の豊かな暮らしがある。この国は、水道下水道などインフラの整備をしてきたが、まだ解決のつかない八潮市の下水道陥没事故などを見ていると、都市社会の崩壊が始まったのではないか、と危機感を持つ。(望むわけではないが)

 諸行無常。エントロピーの法則というのがあるが、全てのものは劣化する。永遠と言うことはない。ネイティブアメリカンの酋長が、新しいことをするには、7代先まで考えて取り入れるか進むか決める、と言った話があったが、そんなことを思い出す。

 話が飛びすぎたが、現代文明がCO2やゴミ問題、海洋汚染などを引き起こし、後戻りできないテクノロジーかどうかをもう少し考える必要があるのではないか、などと思う。お米の話から飛びすぎたが、今のマスコミや国会の先生が論じるのは、目先の事ばかりのように感ずるがいかがだろうか。

 アバウトに言えば都市は食べ物、水など地方に依存する。地方の豊かさが都市を支えている。その地方は、シャッター街が増え、農村では経営体の消滅へと向かっている。10年後にはどうなるか。農村、地方の現状を見れば先が見えない。

 ここ数十年、経済成長論議ばかりをし、その間、大自然を見ず森や農を蔑ろにし、いのちの大切さを教えてこなかった。その上、2030年代には確実に東南海地震が起こるというのに。良い方に考えたいとは思うのだが、皆さんはどうだろう。

                      おかげさま農場・高柳功