(産地の声)vol.1668 一老農のつぶやき 2024.10.9
ようやく我が家の稲刈りが終わった!
先週に続いてお米の話で飽き飽きするかも知れないが、識者と呼ばれる人たちの言い分を聞いていると、違うよなあ!と思うことがしばしばだ。
米価を守る為に減反や飼料米を作ってきたとの論調があるが、現場から見える実態はそうではない。どこを守ってきたというのか、というのが農の現場からの声だろう。(識者やお役人さん方は補助金を出しているではないか、というが?)
私はこれまでに20代から30代にかけて約20カ国を見て回った。また、文化交流と言うことで世界の30カ国の若者を我が家に招き入れて交流してきた。
そして親族には、フランスやアメリカ、オーストラリアドイツといった国々で働いてきた従兄弟やおじさんがいる。いろいろな情報、それぞれの国民性など聞いてきた。
そうした中で、分かってきたことは、この国の場合、農業問題を語る時、農家の問題としてしか捉えない国民性がある。フランスやドイツアメリカもそうだが、農業問題がでると、国民的反応として自分たちの食べ物の問題だ、と認識する。
日本人はそうは認識しない、ということ。どういう議論になるかというと、高い安いの議論にだけ反応する。本質的議論にはならない。
何故そうなってしまうのかずっと考えてきたのだが、たどり着いたのは日本の教育にあるのではないか、ということだ。人が生きるとはどういうことなのか、自分の命は何で支えられているのか。自然の恵があってこそ人間はいきられる。
そうしたことをまったくといっていいほど知らしめず、野菜が高いだの安いだのと言う議論しかできない国民のようになってしまったように思える。
とある政治家(大臣までやった人)が、経済成長を考えれば農業生産高は国民生産の2%だからそんなに考える必要は無い、などと言っていた。仲間の農家は「何だあの人は、何食って生きてるんだ。そんな政治家が闊歩しているようでは日本も終わりだな!」という話になったことを思い出す。
かっての大戦で300万人以上の若者が犠牲となった。が、その内半分以上が戦闘でなくなったのではなく、飢餓、つまり餓死して亡くなったというが、情けなく泣けてくる。そんな国に誰がした!と思う。全てのことは命あってのことだ。ロシアの侵略は許せないが、負けないだろう。なぜなら食糧を自給し、かつエネルギーも自給できる国だから。などと最近の報道を聞きながら思う。
おかげさま農場・高柳功