地球の手入れ

(産地の声)vol.1650 一老農のつぶやき           2024.6.5

 最近、農の世界は、自然の世界と同じようだと思う日々だ。年を取ったせいもあるが、無農薬=有機農の中に身を置いている自分が何をやっているのか、と考えると、やっていることは地球管理人ではないのか、などと思う。

 

 今時の仕事の半分以上は、雑草退治に明け暮れる。種を蒔いたり植え付けした稲や野菜が育つためには、障害となる雑草退治や土管理が仕事だ。作物は、自分の力で育つ。が、生き物はそのままでは育て上げることができない。

 自然は、干ばつもあれば雨や風もあり、天変地変の災害もある。稲つくりは水田というように、水がなければ成り立たないので、植え付けたら毎日水管理がかかせない。畑だって雨がなければ。水不足では枯れてしまう。 

 養老先生の言うように手入れが必要なのだ。人間も自然のままだと髭がぼうぼうとなる。床屋さんに言っての手入れが必要となる。寒さ暑さに耐えるのに着物を着たり、雨をしのぐ場が必要と同じように、着物を着たりとそれなりの手入れがないと生きることができない。そういう目から見ると、近年の日本社会は人間を育てていないように見える。都市は人間の脳が作り出した社会だという。自然は人間の意志など関係なく、多様性に富み、分からないことだらけ。そして人間の意志など関係なく、生き物は育つ。

 今年はカメムシが大発生の年だと言うが、関係筋は早めの防除をというが、それだってわけがあって増えたのだろう。何故かは分からないが・・・

 自然界は、ほっておくと草がはびこり、藪になってしまう。雑草の種は時期が来れば芽を出し、たちまち草原にしてしまう。その様は生きるたくましさを感じる。当方にとっては邪魔者になるのだが、畝刈をしてきれいにしたつもりでも、1ヶ月もしないうちに復活し成長を続ける。

 他にも河川や道路の草刈りもし、地域の手入れを同時にしていることになる。自分たちの生活圏の手入れとも言える。自然との共存しつつ生かしてもらう、だ。

 我々人間はそうした自然から五感を獲得し、育つ。複雑と言うことがあるが、複雑というのは複雑さに出会ってこそ、それが分かる。いろいろあるとは、いろいろある環境に出会ってこそ、そのことがわかる。言葉を知っていても体験がないと知ってはいても分かるということにはならない。そういう人が出てきた。自然に対して畏敬の念を持つ、と言うことがあるがそれを忘れている。言葉が氾濫してもその実態はわからない。それを危惧する時代になってしまった。                         byおかげさま農場・高柳功