永平寺のお話

(産地の声)vol.1480                                     2021.2.10

 人間は動物の一種です。だから生きてゆく上で、食事とは切っても切れない縁があります。食べるために生きるか、生きるために食べるのか。それこそ人生の大問題ですね。

 

 食べるために生きた高度経済成長の結果、日本は豊かになりました。そして心が亡びました。もう一度、生きるために食べる生活に目を移して、失った日本人の美しい心を取り戻さなければなりません。

 「米の重さ」と題してのお坊さんのお話です。書かれたのは1993年。今から28年前のことです。5歳の時から「舎利礼門」という短いお経唱えて寒行托鉢をしたというのです。

 昭和21年生まれの方です。戦後の食糧難でしたので、文字通り「食を乞う」修行でした。禅宗では食事が悟りそのものですから、食して悟らなければならないのです。と結んでいます。

 そのお坊さんが29歳で永平寺に修行に入ったのですが、それまでの10年くらいは贅沢三昧で体重80kgあったのが2週間で30kgも減ったという。永平寺の修行のすさまじさがわかるでしょうと。

 また、ー永平寺の食事は、一日12~13百カロリーしかなく、毎年福井県衛生局の方から食事改善の忠告があるそうです。そうすると永平寺の役寮(責任者)は、「福井県ができてから何年ですか。そう百年。永平寺は七百年以上、この食事でやっています」と、これで話しは終わりです。

 面白い話しです。今の永平寺がどうなっているか知りませんが、それでも7百年という伝統を今も続けてきているということ。それでも人間は生き続けることができる、ということに驚きを覚えます。

 そういうギリギリの食事をすると食べ物のありがたさが身にしみることになるでしょう。人は他の生き物の命を戴いて生きています。お米の命、大根や人参の命に手を合わせ「もろもろも命を戴かせていただきます」と唱えます。

 ですが、その後いただきますは宗教語だから行ってはいけない、お金を払っているのだから言う必要ない、などということも聞きました。

 日本人の食べ残しは6百万トンを超え、世界中の食糧援助に勝るといいます。自然の恵みへの感謝を忘れ、心が亡びるという、そんなところから日本人の劣化が始まったのかも知れません。永平寺、コロナ大丈夫かな。    合掌

                        おかげさま農場・高柳功