たき火のある風景

(産地の声)vol.1469                    2020.11.18 

 かきねのかきねのまがりかど たき火だたき火だ落ち葉焚き

 

 あたろうかあたろうよ きたかぜぴいぷうふいている(たき火のうた)

 時代が変わってこの歌を歌う光景がなくなってしまったようです。今夕、「食と命の教室」で納豆作りをした残物、稲わらでつとっこをつくった残りの稲わらがごちゃっごちゃになった庭先をほうきでかき集め燃したのです。

 昔はどこでも落ち葉はきとたき火は見かけたものですが、今は滅多にお目にかかれません。火を使うということが極端に少なくなっているからでしょう。

 祖母が生きていた頃はゴミなど出ませんでした。家の新聞紙や包装紙なども茶釜の燃料となって家庭ゴミは燃されて温かいお湯や、風呂釜の薪となって生かされていたのです。ですからマッチは必需品でした。燃えないゴミである生ゴミは、堆肥場へと運ばれるか、近くの畑にまかれ自然と分解されるものとしてきたのです。ですから市役所のゴミ焼却場へ持って行くなんてことはなかったのです。

 今は、ペットボトルや缶詰などの金属ゴミは仕分けしてゴミ収集所にだしますが、燃えるモノと生ゴミのようなやがて分解され土に返るモノは自家処分するように心がけているのですが、燃やすことにはうるさくなってきました。

 連れ合い曰く「燃やすことはいけないことになっているから気をつけて!」と叫んでますが、昔はみんな燃やすことによってきれいにしていたと思うのですが、あまり神経質すぎる気がします。

 飛躍しすぎかも知れませんが、ヒトから人間へと進化する過程で他の生き物との違いは、道具を使い始めたことと火をおこすことができるようになったことが人間への始まりだった、と聞いたことがありましたが、人間としての資質が退化しないだろうか、などと野暮な考えも浮かんできます。

 狩猟採取の時代=縄文時代は、土器でもって調理をして食のバリエーションを増やし生き延びてきた歴史を思うと、火を使う体験はとても大切ではないのか、とも思うのですが。

 その昔、列車に乗って旅するとき、夕方になればあちこちに白い煙が村々の家から立ち上がって、「ああ夕餉の支度が始まったのだな」と、暮らしが見えていたのを思い出します。人間も食べれば必ず排泄物が出ます。生活の中でも消費の後には必ず廃棄物が出ます。それをどう処理するか、が問題です。                            おかげさま農場・高柳功