(産地の声)vol.1407 今回は他で書いたものの抜粋です。 2019.8.7
日本人の食卓も、ご飯に味噌汁が当たり前であったのが、今は、トーストにハムエッグがさも当然の食であるかのような時代である。
家族のありようも核家族が当たり前である時代になってしまった。それ以上になると「大家族」という言い方になっているようだが、私達の年代だと「何、大家族って?」「なんでそんな言い方になるの?」という話になる。
かっての日本は、おじいさんから子供まで。別の言い方をすれば、死んでゆく人から生まれたばかりの子供までが一緒に住み、子供は子供なりに年寄りは年寄りなりに、めいめいのできることをして暮らしを立てていた-それが日本人の多くの家族の形だったように思う。
歴史というか時代というか、人は時の流れの中に人は生きている。親がなければ自分は存在しない。その親だってそのまた親がいなければ存在し得ない。自分の生活する文化だって、先人の作り出したものの上に乗っかっている。
8月は盆月というが、今ある自分の存在に感謝をする行事だった(と思う)。そして先祖との出逢いの場、お施餓鬼の場、供養の場だった。
お盆には一族老若男女が集まり、話に花が咲く。苦労話やお付き合いの仕方、ご縁のある人と人とのつながりでの楽しみや、怒りなど、世間の冷たさや、暖かさなど、談笑の中に教えられることが多かったように思う。
そういう機会が、無駄だとか古いとか風習に縛られたくないとか、一口に言えば伝統的日本の文化が否定され現代という社会になってしまったように思う。
今はEUにも日本企業が乱立する時代になったけれども、3.40年前のその時代は、日本が欧州に進出し始めた時代だった。その時代での小話に、「見て見ろ!夕方5時過ぎて電気の付いているビルは日本企業だけだ。」「我々は仕事が済めば、家族とともに過ごし、地域の人達と交流する」「我々の国々では、家庭を顧みず、地域を顧みずの人達は、囚人か軍人だけだ!」という話に妙に感心した記憶を思い出す。
対照的に当時の日本は、家族を顧みず働くことがステータスのように思わされて、それを乗り切るための栄養剤のコマーシャルが流されていたのを思い出す。
果たして日本人はどのような道を歩もうとしているのか。お盆になると一斉に里帰りが始まる。その心は何なのか。少しは深く考えて見ることもありではないのか? おかげさま農場・高柳功