命に対する礼儀でもあります

(産地の声)vol.1387                        2019.3.20

 先週も書きましたが、日本は豊かになったと言われますが、豊か過ぎて食べ残しが数百万トンも廃棄物にされているという現状はなんと考えたらいいのでしょうか。つい数十年前、私達が農業を始めた頃は日本人の食べるものが足りないと、食糧管理法という法律まで作り、作付けから穫れたものを国家管理しなければならない程だった。

 

 そのために全国の田んぼ一枚残らず国家管理して農家につくらせていました。そしてつくったものは農家の権利ではなく、国家の管理権限で農家が売ることを禁じていました。そして、農家が親戚に分ければヤミ米などと言われ法律違反とされていました。

 今は、農家の努力が実ってお米を食べられない人はいません。と言うより輸入で小麦や大豆飼料作物の大量輸入のおかげで高タンパク高脂肪のグルメ食が当たり前になっています。

 食べ物をより安く、大量に、いつでも新鮮?用意するおかげで大量に食べ残しているわけです。世界の食糧援助の総量よりも、我が国の食べ残し量が多いと聞きました。世界の中には、飢餓人口が数千万人、数億人いるというのに、バチが当たるような気がします。

 その昔は食べ物を粗末にすると、叱られたものです。それがマナーでありしつけだったような気がします。ご飯一粒でも食べ残すな!お米は一年に一回しか穫れないんだぞ!などと言われながら、、、。

 近年の風は食べ物に関心を持たないと言うことだそうです。どういうもの(原材料)を食べているか知ろうともしない。何処で穫れたのかも知らない。遺伝子組み換えなども知ろうとしない。知らないづくしで、食事をしていない日本人になってしまっている、とは無着先生の指摘ですがそう思えてしまうこの頃です。

 食事というのは命あるものを我が命のために食する。だからお米さんの命をいただきます、と感謝を捧げて戴くのだ。命を戴くのだから、成仏してもらうためにも残さず戴く。それが命ある物に対する礼儀でしょうね!と。

 そんなことを思いながら彼岸を迎えました。我が家の彼岸参りもありますが、親戚、近隣の彼岸参りも欠かせません。今年は5軒ほどお線香を上げにいきました。お茶を戴き、生前のことやその家の家族の様子や、私の知らなかった我が家とのご縁など聞くことができました。一期一会、無駄はないものです。 合唱

                     おかげさま農場・高柳功